山口静花「レズビアンとは何か」(中山可穂『花伽藍』)
この本の中には、「鶴」という短編がある。
子を亡くしたノン気の人妻 田鶴子に恋をした「わたし」が、狂おしさや切なさの末、背中に鶴の刺青を彫る、という短編である。
わたしは「ごく若いうちから、夏はわたしのものだった。」と言い切るほど、夏祭りの太鼓に情熱を傾けている。
そして、そこで出会った田鶴子と、彼女の纏う白く気高い鶴の浴衣に心を奪われる。
「蛍にもし魂というものがあり、人間の肉体を借りて宿ることがあるならば、それはたぶんこのようにさみしく冷ややかでよるべないものだろうとわたしは思った。」わたしは田鶴子をそう表現する。
こんなに美しい女性の描写が今まであっただろうか。三十五歳である田鶴子の色気とほのかに漂う死の香りを捉えたような冴えた表現である。
そして、田鶴子と一夜を共にしてから、わたしは振り返って思う。「美しすぎる幻だったのだ。そしてたづさんは、やはり蛍の化身だったのだ。」
わたしが田鶴子に恋焦がれるほど、私も焦がれていく。夏に灼かれていく肌のように、じりじりと痛みを感じていく。
田鶴子は、わたしにとってのファム・ファタールだ。そのわたしを通して語られる田鶴子の姿は、なんとも言えぬ色香を纏って浮かび上がってくる。
私はその香りに眩むように、ぐんぐんと読み進めていった。そして、あることを考えていた。
私はつい最近、女性限定のLGBTイベントに行ってきた。
初めての場であったそこは、私のように女性も好きになるかもしれない、という者にも寛容な世界だった。
私はレズビアンではない。そっちの気があるかもしれないなァなんて考えてはいるけれども、私の世界には今まで男の影しかなく、女性とは友情止まり……。
だから究極的に言えば、今回読んだ『花伽藍』というレズビアン小説を骨の髄まで理解することはできないだろう。
私は、女性に対してある程度の興味があって、もしかしたら……?と思い当たるような節がいくつかある。
例えば、異性の体に触れることより同性に触れる方がドキドキするだとか、男性より女性を見ていることの方が多いだとか、大胆に言えば女性の体に欲情するだとかいうものだ。
しかし経験がないばかりに、私は確信が持てずにいる。
わたしは背中に鶴の刺青を彫る。
田鶴子自身を象徴するような羽根を広げた鶴は、蛍のような儚さを持ち合わせながらきっと千年生きる。それだけ深い情念を、わたしは体に刻み込むのだ。
私はそれを想像してため息が出る。それほど誰かに思い焦がれ、断ち切れない恋慕というのは、一体どんなものなのだろう。
そして、私はふと、気づかされたのだ。それはもはや性別を超越しているのだということに。女だから男だから、そんな壁はとっくに取り払われてしまっているのだということに。
ああ、きっと、女の人を好きになるのって、女だから好きになるんじゃなくて、「その人だから」好きになるんだわ。それは田鶴子のように、女性を好きになることなく生きてきたのに突然降ったようにわたしに恋をした、その境遇と同じようなものなのだろう。
その気づきはやさしく、私を包み込んでくれるようだった。
私はいつか恋をするだろう。それは男性かもしれないし、女性かもしれない。
でも確かなことは、私も誰かを大切に思い、時には激情で持ってその人を迎え入れるということだ。
鶴という短編は、女同士の恋愛でありながら、人を好きになるというのは、性別ではなくその人自身を愛することなのだと、私に気づかせてくれた。
背中に彫られた鶴は、情愛というにはあまりに甘美で、痛々しく、そして優美に佇んでいる。
私も、これだけ焦がれる恋をいつかしてみたいものである。
(1,483字)(22歳、女性、愛知県)
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