第10回コンクール 優秀賞作品


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酒井夕華「新たな読書のはじまり」(ショウペンハウエル『読書について 他二篇』)


 「読書について書かれた本が、書店に並んでいる」

 猛暑から逃れるように駆け込んだ新宿紀伊国屋書店で、火照った頭はその入れ子的状況にまだ混乱していた。しかし、同時にシャレのようも思え、本を手に取った。哲学者ショウペンハウエルが、読書という行為の危うさについて辛辣に論じた『読書について 他二篇』だ。

 「数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であればすぐれた効果をおさめるが、知識のばあいも事情はまったく同様である」

 冒頭の一文で、椅子にだらしなく寄りかかっていた身体が硬直する。
 「コンプレックスを見抜かれた」

 今やショウペンハウエルは、ページの上にその姿を現し、冗談混じりに読み始めたことを非難するように私に向かって指をさしている。
 アンクル・サムを想起させるしかめ面。下手なごまかしは通用しない相手だろうと直感した。

 学生時代、成績はどちらかといえば良かった。廊下に貼り出された期末テストの順位表で上位に自分の名前を見つけたこともある。
 しかし、いつも素直に喜べなかった。人生において長期的に役立てようと学び、吸収した知識ではなく、ただ一問一答のインスタントな暗記をしているに過ぎなかったからだ。
 ショウペンハウエルが指摘したように、多くの知識に触れていようとそれらを体系付けて理解していなかったため、知識が自分の中に根を下ろさないまま忘れ去られていた。そのため、どんなに親や友人が成果を褒めてくれても、後ろめたさが残った。

 そんな当時、読書感想文を書こうとするとどうなるか。
 年号や固有名詞を正確に覚えるがごとく、前のめりに課題図書を読んだ。
 「悲しいと思った」「驚いた」などの感情を刺激してくれそうな展開や目立つ台詞がないか、辺りをキョロキョロと見回し、見つけ次第捉えてやろうと息巻いて探し回った。
 つまり、感想文を書くことが自分の考えを整理するための手段ではなく、ただクリアすべき目の前の目的になっており、まったく内容に集中できていないのである。
 今となっては本末転倒だと感じているが、自然な反応として瞬発的に生まれるはずの感想を予め定め、その感想を生んでくれそうな展開を探していた。

 それから10年後の今、私は趣味に「読書」と答えられるくらいには日常的に本を読むようになっていたが、それでも頭のどこかで「読んだからには登場人物の名前や物語の展開を覚えていなくては」という暗記癖が抜けずにいた。
 だからこそ、この日出会ったショウペンハウエルの言葉が喉元に突きつけられたナイフのようだった。

 しかし、ショウペンハウエルは、読んだことを忘れないようにするのは食べたものを全て体内にとどめようとすることだと、私のような読者の苦悩をまたしても見抜いた。
 そして、向かうべき道を次のように示してくれてもいる。
 「しかし肉体は肉体にあうものを同化する。そのようにだれでも、自分の興味をひくもの、言い換えれば自分の思想体系、あるいは目的にあうものだけを、精神のうちにとどめる」

 私の読書に対する姿勢は、この一文以前・以後に分けられる。

 こうして読書をする際、その本について覚えようとすることを一切辞め、純粋に内容に身を委ねるようになった。
 
すると、驚いた。忘れていくことを恐れないようになると、「それでも自分のなかに残っていった事柄」に気付くのである。この要素こそ、「自分の思想体系、あるいは目的にあうもの」なのだ。
 さらに、そうして残っていった事柄同士を結びつけると、自分が興味をひかれる事象や求めている思想など、自ずとその時の自分の姿が見えてくるようになった。
 点と点を線で結ぶように、自分のなかに根を下ろした知識を元に考え始める。つまり「整理」ができるようになってきたのである。

 こうした経験を文章にまとめようとしたとき、以前だったら「すでに誰かが考え抜いたことかもしれない」と思って筆を止めただろう。
 しかし、そんな私を後押ししてくれたのもまた、ショウペンハウエルだった。
 「自分の思索で獲得した真理であれば、その価値は書中の真理に百倍もまさる」

 この読書感想文は、『読書について 他二篇』を読んだことで得た知識の整理であり、その整理が正しく行えているかを確認する試みでもある。
 しかめ面だったショウペンハウエルは、今や私に勇気を与える存在になっていたが、もしこの読書感想文を提出したらどう成績をつけてもらえるだろうか。
 もし少しでも褒めてもらえるならば、そのとき私は、初めて心から喜べるだろう。

(1,848字)(29歳、女性、東京都)


 ●使用図書


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