仲「全ての彼らに敬意を」( ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』)
差別を知らない人間はいない。誰しも差別はいけないことだと知っている。
幼少期に親の教えで、小学校の道徳の教科書で、中学校の校長先生のお話で、高校のころに友達と、そして大学の講義の中で、差別はいけないことだと、人の声で又は自分の声で訴えてきた。
しかし、私は過去に許されない差別をしたことがある。それは私の胸に楔のように打ち付けられて、今でも叫び出したくなるような罪悪感と後悔を呼び覚ます。
そんな私の過去を根こそぎ抉り出して、白日のうちに晒し、剥き出しの私の過去をぐちゃぐちゃに包丁で滅多刺しにした小説がある。
『アルジャーノンに花束を』
知能指数68の主人公が手術によって天才となる過程をえがいた作品だ。
主人公、チャーリイは白痴であり、パン屋の同僚にはバカにされて、バカにされていることにも気づかず一緒になっていつも笑っているような知能の低さゆえの愚かさを持っていたが、チャーリイには白痴ゆえの温かさ、率直さ、親切さ…彼にはみんなが相手にしたいという気になる、そんななにかも持っていた。これはチャーリーを受け持っていた精薄組の教師、アリス・キニアンも作中で何度も明言している。
チャーリイは優しかった。私がそのことに気づけたのは、小説の本当にラスト、チャーリイがワレン養護学校に行くと決意した日の経過報告書を読んだときだった。それまでの私はアリスの言うチャーリイの優しさを、本当の意味で理解していなかった。
チャーリイは手に入れた知能を失い、白痴に戻ったときに初めて周囲の寛容を手に入れた。一度は追い出されたパン屋にまた置いてもらえて、チャーリーを馬鹿にして笑っていた同僚に本当の意味で受け入れられた。
チャーリイはあれだけ望んでいた友人を手に入れたのだ。
しかし、チャーリイは自分が「かわいそう」と思われたくないから、その周囲の寛容を手放すようにワレン養護学校に行くことを決意する。
私はその小説のラストで、自分でも不思議なほど声を上げて泣いた。
そのときの自分は悲しいのだと思った。寛容を手に入れたはずの優しいチャーリイが誰の手にも届かない場所に行ってしまったこと、知能を得るとともに失った優しさを取り戻して、彼はそこで生きていけるはずだったのに。
私は自分の涙を初め別離による悲しみだと感じていた。しかし、それは違った。私はもっと醜く、傲慢な人間だった。
私の感情を紐解くには私の過去を晒す必要がある。
私の近所には白痴の(あえて白痴と表現したい)男性が住んでいて、わたしは幼少期その男性によく遊んでもらっていた。
しかし私は歳を重ねるにつれて、その男性が白痴であること、そして、白痴の男性と親しくするのは“健常者”としておかしいことを周囲の反応から学んだ。
私は周囲からこの白痴の男性と同列にされること、自分も“異常者”であるというレッテルを貼られることを恐れてその男性を遠ざけようと、小学校の夏祭りで見かけては「警察をよぶぞ」と脅かしたり、あの男が家にくると「来るな」と言って締め出した。
しばらくそんなことが続き、その男はあるとき私の家に訪れると、「祖母が死んだ。もうこない」と言って、それからその言葉通りぱったりと、家にも地域にも現れることはなくなった。
そのときの私の感情はただただ安心という言葉に尽きる。ようやくあの男から解放されたと。
この文章を書いている今も、自分の愚かさと罪悪感に胸を掻き毟りたい衝動に駆られる。
あの人はいまどうしているのか私には知りようがない。いや、きっと知る術はいくらでもあるけれど、私にはその勇気すらない。
私はその男性をチャーリイに当て嵌め、そして自分は周囲の人間に感情移入していて、彼らにずっと同族嫌悪を抱いていた。
しかし、最後にはチャーリーに優しくした彼らを好きになってしまった。それは私が彼らに自己投影をしていたからだ。
羨ましかった。私もそうしたかった。私もチャーリーに許されて彼に優しくしながら生きていきたかった。私もあの人に許して欲しかった。
最悪だ。私は自己肯定と自分かわいさのためにチャーリーの許しを利用しただけだった。私の涙はただ、チャーリーに許された喜びと、そしてチャーリーがもう二度と手に届かない場所に行ってしまったことに、もう二度と会えないあの男性を重ね合わせて、もう彼に許してもらえないことに悲しんでいただけだった。
白痴という言葉を使うと眉を顰められる。言葉を意識するだけで差別をしていない側の人間に立てるからだ。
でも、そんなことは些細な問題だ。意味を当てはめただけの文字の羅列にはなんの意味もない。大切なのは意味の方なのに、私たちは目的と手段を履き違える。
私は、過去を受け入れた上で盲目的な優しさではなく、全てを受け入れる優しさを手にしたチャーリーに敬意を払いたい。愚かさゆえの優しさなんて言葉は撤回する。
チャーリーは優しい。それが私が伝えたい一番の感想だ。
(1,996字)(20歳、女性、福井県)
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