第11回コンクール優秀賞作品


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花村梅「トカトントンが聴こえたら。」(太宰治『トカトントン』)


 定期的に読みたくなる小説、というものがある。
 私にとって、太宰治の『トカトントン』はその一つだ。

 拝啓。
 一つだけ教えて下さい。困っているのです。

 冒頭、短編はこう始まる。
 手紙の書き主は26歳の青年。問いかける相手は憧れの小説家。

 昭和20年8月15日、終戦の日。
 玉音放送に項垂れる青年の耳に突如響いた金槌の音「トカトントン」。 以降、その音は定期的に彼の人生に登場し、悩ませる。

 勉強、仕事、恋…
 -何か物事に感激し、奮い立とうとすると、どこからとも無く、幽かに、トカトントンとあの金槌の音が聞えて来て、とたんに私はきょろりとなり、眼前の風景がまるでもう一変してしまって、映写がふっと中絶してあとにはただ純白のスクリンだけが残り、それをまじまじと眺めているような、何ともはかない、ばからしい気持になるのです。-

 堰を切ったように畳みかける文章に、どきりとする。
 憑かれたような焦燥感も、突然襲いくる虚無感も、覚えのある感覚だったから。ぼんやりと感じながらも、掴み損ねていたものが、目の前で見事に言葉になっていたからだ。
 しかも、「トカトントン」というたった6文字の音で、あっけなく。

 コロナ禍という未曾有の事態。 様々な不条理が、一気に押し寄せた。
 これまで依って立っていた常識や価値観が意味を失った。急な速度でいろんな物事が覆っていくのに、誰も説明してくれないし、責める相手もいない。「正しさ」が乱立する。

 そんな中で私が直面したのは、圧倒的な無力感だった。
 自分を取り巻く状況の果てしなさ、過信していた自分のあるべき姿、そして現実の自分の矮小さ。この三者が全くもって釣り合わず、バランスを崩した感情が考えることを放棄していた。

 無情に過ぎていく時間に焦りだけが掻き立てられる。足元が覚束ず、何かに縋らなければ立っていられない。だから、「なにかをやっている感」に没頭する。
 けれども、所詮は形だけの風船。限界がくる、と同時に、強烈な自己嫌悪に陥る。
 「トカトントン」と聴こえる気がする。

 元来、完璧主義の計画人間。一度決めたことは簡単にはやめられず、自分が課した義務感で雁字搦め。恥を恐れ、他人に相談することもままならない。
 自覚はある。この性格が自分の首を絞めている。けれども、そう簡単に変えることはできない。 自分でありながら、自分の手を離れてしまっている。そのことに気がつくと、底知れない恐怖に取り憑かれる。

 -教えて下さい。この音は、なんでしょう。そうして、この音からのがれるには、どうしたらいいのでしょう。私はいま、実際、この音のために身動きが出来なくなっています。どうか、ご返事を下さい。-

 この青年は私ではない。だけど、どこかで重ね合わせてしまう。
 そんな彼の手紙に対し、小説家が返す言葉はこうだ。

 -気取った苦悩ですね。 (中略)  真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするものです。マタイ十章、二八、「身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」 (中略)  このイエスの言に、霹靂を感ずる事が出来たら、君の幻聴は止む筈です。-

 ああ、と思う。これで一気に青年とその悩みが相対化される。

 太宰の小説の主人公は、みな必死に悩んでいる。これでもかというほど内向的で、プライドが高く、極端で、恥を晒し、醜態を晒し、自らの生き様をかけて、どう思うか? と読者たる私たちに問うてくる。
 面倒くさい人間だ。そして、面倒くささも突き詰めると滑稽なのだ。

 青年に自分を託し、客観的に対面することで、見えてくるものが沢山あった。
 「考えすぎだよ」「損な性格」 でも、それがどうしようもなく愛おしい。
 そして、その言葉は、そっくりそのまま私に返ってくる。

 トカトントン、トカトントン。
 改めて口に出すと、なんと剽軽な響きだろうか。
 そう俯瞰して思えた時、自分がこれまでずっと息を詰めていたことに気づく。ため息と一緒に、大きく深呼吸することができる。

 小説に対しては、取り繕う必要もない。見栄とか、恥とか、余計な感情を抜きにできる。無防備な自分を曝せる。素直に自分と対話する絶好の機会をくれる。
 思考が内向きになっている時は、視界がどんどん狭まって、一つの考えから抜け出せなくなってしまう。でも一歩外に出て、捉えてしまえば、案外私の苦しみは呆気ないものなのかもしれない。

 求めさえすれば、いつでもそばに居てくれるのが小説。自分がほとほと嫌になった時、私はこの本を開く。自分を笑ってやる。気持ちが軽くなる。悪くないか、と思わせてくれる。
 救い、と言ったら大袈裟だろうか。

(1,857字)


 ●使用図書


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