鷹匠亮「夜明け前」(夏川草介『神様のカルテ』)
理想の姿であった。
時に迷い、苦悩しながらも目前の患者達に懸命に向かい合い、命を繋ごうとする本作の主人公医師公栗原一止の姿である。
私は、気付けば今年で30歳も半ばになる。
詳しくは記せないが、私は法に基づき人々の暮らしを守る仕事をしている。昼夜を問わず働く仕事であり、かれこれもう勤めて10年以上になる。インテリジェンスという点では遥かに及ばないが、人々が寝ている時間帯も働く「特殊な仕事」という点では、主人公と同じかもしれない。しかし、主人公一止と私は違う。
私は別に医師という仕事に憧れているわけではない。私は、今の仕事に私なりのプライドと信念を持ってきた。私という人間は小さな人間で、大した能力もない。しかし、そんな私だからこそ、せめて何か世の為人の為に尽くしたい。私の行動で誰かの人生が、誰かの何かが少しでも変わるのであれば・・・と思い、私なりに尽力してきた。
しかし、最近その想いが少し影ってきたのを感じていた。理由はよくわからない。私のしていることにどれだけの意味があるのだろう、と意味もなく物思いに耽る時間が無意味に増えた。そんなとき本作を読んだ。主人公栗原一止の言葉の数々は、乾いた私の心に染み渡った。
「学問を行うのに必要なものは気概であって学歴ではない。熱意であって体裁ではない」
一止が住む御嶽荘の住人、文学に造詣の深い若き「学士殿」が挫折を吐露した際、一止が学士殿にかける言葉である。
最も人に知られたくないことを、話したくないことを皆に打ち明けた学士殿。全てを皆に打ち明け絶望と悲しみに暮れる彼にかけた一止の言葉は、学士殿の心に染み渡ったであろう。学士殿を暖かく包む様子が本を通し伝わってくるようで、言葉の力はなんとすごいものかと思った。
一止の本当の凄さは、内科医としての腕前ではない。他者に「言葉」を処方できることだと思う。人情に溢れ、同情とは違う、その人を真に想うから、日々医療という過酷な現場で、それでも「誰かのために」動き続けるから、いのちの儚さ、人の脆さを誰よりも知っているから。
それに比べると私はどうだろうか。厳しい社会の目や過酷な勤務を言い訳にして、「人のために」など口だけは一端だ。現場で救えなかった命や、防げなかった事故。それらに出会うたび、いつしか「現場の環境が悪かった」「通報が遅かったから」と言い訳するようになった。条件の整った現場など一つもありはしないのに。一止なら、決して自分の行動に言い訳をしないだろう。彼なら、どんな環境下でも医師として自分の職責を果たすべく、命と向き合い続けるだろう。
「今はまだ、自分の人生の『夜明け前』なのだ」
一止が学士殿に向けた、彼の愛読書、島崎藤村の『夜明け前』を引用した言葉である。
医師という仕事は、その性質上、通常の職業より高度な技術、知識、倫理観が求められると思う。そのような重圧の中、まして本作の本庄病院のような救急部門も併設している病院で日々働く医師の苦労は想像を絶する。ましてや、一止のような、重軽傷に関係ない一人一人の患者に寄り添う医師ならなおである。
一止にもきっと、私のように「自分の存在意義」がわからなくなった時期はあったと思う。そんな時彼は、「今はまだ、自分の人生にとって夜明け前なのだ」と言い聞かせて、数々の困難を乗り越えてきたのだと思う。言葉の力を彼は知っていたから、先人から得た言葉の力を自分自身にも言葉の薬として処方していたのだと思う。
一止の言葉が学士殿を優しく包み、その背中を押したように一止の言葉は、私にも届き私の背中もそっと押されたような気持ちになった。
言葉の力は偉大だ。本作を読み終えた後も、私の迷いが完全になくなったわけではない。明日からも迷いながら勤務に就くだろう。しかし一つだけはっきりしたことがある。一止から受け取った言葉を今度は私が別の誰かに渡すのだ。一止に救われた学士殿のように。
これからも私は様々な現場に行く。一止のように、私の言葉で悲しみに暮れる誰かを救えたら、少しでも誰かの心を晴れやかに出来たらどれだけ素晴らしいことだろうと思う。 私が「生きている喜び」を感じられるのはそういう瞬間なのだと、まだ新人であった日の気持ちを思い出すことが出来た。
一止が病院内を走り回るように、私も現場で待っている人の為に走ろう。いつか私の言葉に救われる人がいるならば、これ以上の幸せはない。
今はまだ、私の「夜明け前」なのだと信じて。
(1,817字)(36歳、男性、和歌山県)
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