第15回コンクール優良賞作品


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小林共捺哉読「『シ』の有無」(若松英輔『悲しみの秘義』)


 シガナイシガナイシガナイシガナイ。
 来る日も来る日も朝から晩まで。生活の為の営みを繰り返していた。雨の日に雨の情緒を味わうではなく、駅まで濡れなければいいかと鬱陶しく思う。時間があれば時間があればと思いながら読書、詩歌から離れていっていた。
 繰り返しの日々のなかで、自分の内面に確かに流れていた内言の声量がどんどんと小さくなっている気がした。それは遠くなっているような、忘れていっているような、弱々しくなっているような。そのどれでもあって、どれであっても乾いていくような気がした。
 詩がない。しがない。内心。無い芯。ない混ぜにして繰り返す。シガナイシガナイシ。この語群が私を最後に形として保つものだった。

 SOSのような、呪言のような「シガナイシ」を雑談程度で人に相談したことがある。それは休みが欲しいことと勘違いされた。
 私の伝え方もダメだったのだと思う。雑談ではなく、もっと真剣に伝えるべきだった。浅はかに傷ついた。しかし違った。どこかではわかっていた。真剣に伝えたところでわかってもらえるわけではない。むしろわかってもらえないと気づいていたから雑談程度に、自分の内言に言い訳するかのように相談したのだ。重傷の傷つき方をしない為に。

 また一段と、内言の声は小さくなっていた。月曜の次には火曜日が来ていた。
 今日、本屋に行かなければ一生このままだ。どうしてか脅迫的な気持ちが芽生えた。
 久しぶりに本棚と本棚の間に立つ。新品の本の匂いと目がチカチカするカラフルな色彩。表紙の味が年々強くなっていっていて手の出しづらさを覚えた。
 タイトルを斜め読みする。今日脅迫的に呼んでいたのはこの本だったのか、そう錯覚するほど手が勝手に取った本があった。
 『悲しみの秘義』。深く秘められた教え。内言が頁を開かせた。
 「ちょうど三十歳になったころだった。自分から言葉が離れていく、そんな感覚を味わったことがある」
 「あるとき、詩とも呼び得ないようなものが心に宿った。書いてみると、日ごろ忘れている内心の声を聞くような実感があった。人が語ろうとするのは、伝えたい何かがあるからでも、言葉では伝えきれないことが、胸にあるのを感じているからだろう。言葉にならないことで全身が満たされたとき人は、言葉との関係を深めるのではないだろうか」
 図星。そんな言葉の次元ではなく読書を続けていたときに訪れる欲しかった言葉が貰える感覚。わかりそうでわからなかったことに名前を付けて、琴線を柔らかに撫でてなれる。

 この本は二十六編のエッセイであった。とにかく読みたいと思った。それに一編がそもそもそこまで長くなくこれなら読めるとも思った。
 悲しみの秘義は、一編目のタイトルであった。
 「涙は必ずしも頬を伝うとは限らない。悲しみが極まったとき、涙は涸れることがある。深い悲しみのなか、勇気をふりしぼって生きている人は皆、見えない涙が胸を流れることを知っている」
 私は悲しかったのだ。忙しくなって考えられなくなって疲れていってただそこに悲しみがあった。渇ききった涙がずっと流れていた。私がずっと泣いていたことに、本の言葉が手となり拭えたことで気がつけた。やっと私は私のことを抱きしめてあげられた気がした。

 目次にはタイトルが並ぶ。見えていないことの確かさ・眠れない夜の対話・覚悟の発見・書けない履歴書・詩は魂の歌。気になるタイトルだけで私が形作られていく。
 「偶然、ある出来事が起こって、どこからか心に光が差し込んでくる、そう感じたことはないだろうか。光線を目で見たわけでもないのに、光としか言いようのない何かが胸を貫くのを感じたことはないだろうか」
 「人生の意味は生きてみなくては分からない。素朴なことだが、私たちはしばしば、このことを忘れ、頭だけで考え、ときに絶望していないだろうか」
 解けて結んで繋がって。私の中でいくつもの言葉が生まれ心臓を脈打つ。答えが出るわけでも生活が一転するわけでもない。しかし確かに言葉たちが繋がり詩が流れはじめた。
 詩があると、私があって志があって思があって、支えてくれる。雨の音で読書ができる。もう忘れない、もう逃さない。内言が強く強く聞こえていた。

 本文では著者が多くの作品の引用をしている。この作文では孫引きになってしまうため控えるが、エッセイがどう紡がれてどこへ向かうのか気になった人は読んでみて欲しい。
 「わらをもつかむ思いで探すのは言葉なのである」
 この本から引用できる私がいることを今は心から嬉しく思う。

(1,830字)(23歳、男性、東京都)


 ●使用図書

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