第16回コンクール優良賞作品


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むらさき「『分人』という考え方との出会い」(平野啓一郎『空白を満たしなさい』)


 小学生の頃から憧れていた教師という職業に就いて8年。残業は毎日、土曜は部活、日曜は授業準備。仕事をしない日はほとんどなかったが、きれい事ではなく、お金には換えられないほど多くの大切なものを得ている実感が毎日あり、やりがいを感じていた。学校で生徒と過ごす時間が好きだったし、何よりも教師でいる時の自分が好きだった。教師のまま一生を終えられたら幸せだと心から思っていた。
 しかし、ある時から教師でいることが苦しくなり、私が教師人生9年目を迎えることはなかった。
 離職後、じわじわと襲ってきたモヤモヤ感がようやく落ち着いてきた頃、この本と出会った。30代男性の主人公徹生も、毎日忙しく立ち働いており、充実した疲労を根拠に「自分のたった一度しかない人生を十全に生きている」と信じるその姿が、教師をしていた頃の自分の姿と重なった。

 『空白を満たしなさい』は、作者の考える「幸福」と「分人」という考え方が大きなテーマとなっている。
 ある日、会社の会議室で目覚めた徹生は、自分が3年前にビルの屋上から落ちて自殺したことを知らされる。しかし、仕事では新商品の開発に情熱を注ぎ、私生活では愛する妻と幼い息子に恵まれ幸せな生活を送っていた自分には、自殺する理由がない。自分は殺されたのではないかと考え、自分の死の謎を追求していく。
 その中で出会った池端の口から語られるのが、「分人」という考え方だった。

 一人の人間の中には、色んな自分がいる。対人関係ごと、環境ごとに異なる自分(=分人)がいて、表面的に使い分けたり演じたりするのではなく、それらすべてが「本当の自分」である。個性とは分人の構成比率であり、誰と付き合うかで変わっていく。
 この「分人」という考え方をもとに、徹生は自分の中のどの「分人」がどの「分人」を殺そうとしたのかについて考える。
 必死に働くことで幸福感を見出し、生きていることを実感していた徹生だったが、疲労から「生へのつらさ」を感じるようになり、幸福でない自分を消してしまいたいという衝動に駆られた。この時もし「分人」という考え方を知っていたら、妻や息子との分人を足場に生きていきながら、いやな分人だけを消すことができたかもしれない。だが、自殺した時の徹生はまだその考え方を知らない。そのため、「息子のために生きたい」と願う自分が、「死にたいと考えそうな自分」をビルから突き落とした。これが、徹生の死の真相だった。

 憧れだった教師という仕事に対して、あんなにやりがいを感じていた自分が10年も経たずに教師を辞めたのも、私の中の「ある分人」が、「教師の分人」をいやだと思ったからなのかもしれない。
 20代半ばに結婚ラッシュを迎え、自分もその波に乗り結婚した。そして30歳に手が届きそうな頃、今度はベビーラッシュが訪れた。私の中から「バリキャリ友人」との分人がほとんどいなくなり、「母になった友人」と「赤ちゃん」との分人が増えていった。同じ頃に姪も誕生し、叔母という新しい分人もできた。赤ちゃんといる時、特に、姪といる時はその可愛さに癒やされ、日頃の疲れがすべて飛んでいった。
 教師という仕事にどれだけやりがいを感じていても、徹生のように疲労は蓄積されている。そのため、「赤ちゃんとの分人」でいる時間はとても心地よいものであり、この時間をもっと過ごしたいと願うようになった。そして母となった友人や姉を見て、自分の中で子どもを望む気持ちが大きくなっていった。
 しかし、子どもを授かろうと思っても、「今年は修学旅行がある」「受験生の指導頑張りたい」等と考える「教師の分人」が、その邪魔をする。そして、「母親になることを願う分人」が、「教師の分人」をいやだと感じ、私はその苦しみから解放されるために、「教師の分人」を消した。この本を読み終えて、自分が教師を辞めた真相はこうなのだと思った。
 離職後モヤモヤに襲われたのは、分人構成比率のほとんどを占めていた「教師の分人」が急に無くなり、不安定な状態になったからだろう。そして今落ち着いているのは、空白を満たすように、新しい分人構成を構築できたからだと思う。
 それからはこんな変化がみられるようになった。忙しくしていた頃は、帰宅後にソファで寝落ちしている夫の寝顔を見ると苛ついたが、今ではその寝顔を見ても苛つかないどころか、笑みがこぼれるようになった。友人が遅刻してきても、「この時間があれば一時間分の授業準備ができたのに」と残念がるのではなく、会えたことを素直に喜べるようになった。幸福とは疲労の上に成り立つものではなく、このような日常の些細なことに喜べることなのかもしれない。

 いつか、自分の中の様々な分人と教師の分人が上手に付き合えるようになった時、また教師という素晴らしい仕事に戻り、また小学生の頃から憧れていた分人を生きてみたいと思う。それまで「教師の分人」は、しばし休憩としよう。

(1,999字)(31歳、女性、愛知県)


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