第2回コンクール 優秀賞作品


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千夏2018「君の膵臓を食べたい」(住野よる『君の膵臓をたべたい』 )


 膵臓を病んでいる桜良は、医者に余命1年であると宣告されている。しかし、彼女は闘病に専念するのではなく、自らの運命を受け入れ「共病」することを決意する。彼女は近づく死の恐怖に耐えながらも、ネガティブな感情を表に出すことなく、友人たちと「普通の」高校生活を営むべく前向きに生きようとするのだ。

 もし私が、彼女と同じような状況になれば、たちまち絶望し、悲嘆にくれてしまうだろう。そして、「どうせ死ぬんだから」と主張し、周囲に特別扱いを求めてしまうに違いない。しかし彼女は普通であり続けることにこだわり、友人たちに病気のことを伏せ、今までと同じ関係を維持しようとする。

 おそらく、彼女は宣告された余命で人生を終わらせるつもりはなく、未来を見据え、その先も生き続けるという心構えで、共病していたのではないだろうか。周囲からの特別扱いを受け入れてしまえば、死と向き合う気力は削がれてしまう。死を敵視し、特別扱いするのではなく、死を甘受しつつ向き合って生きていくこと。それこそが桜良の言う共病だったのだと思う。

 桜良のように、死を意識した人間の生はその密度を増すものである、と私は思う。アップル社の創設者スティーブ・ジョブズ氏は、毎朝一日の始まりに鏡に向かい、「今日で人生が終わりだとしたら、私は何をするだろうか?」と呟いていたという。死に向き合っていた彼女は、ジョブズ氏と同様、人生の有限性を強く感じ、ありふれた日常に含まれた価値を理解していたはずだ。

 本書は、若きヒロインが突然死するという悲劇的なストーリーではある。しかし、死の際において、彼女自身に後悔は少なかったはずだと私は思う。もちろん、主人公と桜を見にいく約束を果たせなかったという無念はあっただろう。しかしそれ以上に、彼女の中では、最後まで人生に前向きに挑んできたという自負があったはずだ。最後まで逃げることなく死と向き合い続け、その過程で死を迎えたのであれば、それは本望だったに違いない。そうした生への意欲を伴った死を迎えることこそが、彼女の共病の目的だったのではないかと思う。

 私は自らの人生において、高校時代はおろか、近年まで日々を懸命に生きていなかったように思う。人生の時間は無限であると誤解し、惰眠を貪り、人生と真剣に向き合って来なかったように思うのだ。しかし言うまでもなく、今日という一日は限りある人生の一部である。我々が無限だと錯覚している時間は、ほんの瞬きをしている間に、桜良のように奪い去られてしまうかもしれない。そのような突発的かつ偶発的な死に対して、我々が策を講じることができるとすれば、桜良のように日々を全力で生きるという意志を持つことではないだろうか。

 死の恐怖に向き合い、かつ人生に前向きに挑んでいた桜良は、終始輝いていた。私も主人公と同様、陰気で根暗な性格である。大人になった今でも、生の価値を見失い、挫けそうになることはしょっちゅうだ。そんな私こそ、彼女の膵臓を食べたいと願うべきなのかもしれない。

(1235字)(39歳、男性)


 ●使用図書


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