朝本「深夜の愛読書」(若林正恭『ナナメの夕暮れ』 )
定期的にやってくる「もうどうにでもなれ」という時間を、何度も挫折して生きてきた。
夜中3時3分。寝付けずに手に取る本は、ただひとつ。『ナナメの夕暮れ』である。
内向的でネガティブな私は、明るいとはとても言えない。友達100人と山でおにぎりを食べる童謡の主人公にはなれない。健康的な光を浴びる100人分の影で、「日向は暑いだけだ」と言いつつ一人背中を丸めておにぎりを頬張る人間だ。
そんな私が好きな芸能人を聞かれたら、いつも「オードリーの若林正恭」と答えている。
きっかけは何年か前に、音痴が集って歌を披露する番組に出演していたのを見たことである。その番組内で彼は出演者の誰よりもむくれて悪態をつき、歌いたくないとずっと文句を言っていた。審査員にも盛大に噛み付いてみせた。
あのむくれ具合と一歩間違えれば暴言スレスレの発言。それは危うくて、そして惹かれる存在だった。ロックスターのハラハラ感ではない、影の含んだトゲのある彼の物言い。
その日から私は若林正恭が気になり始めた。
何より惹かれたのは彼の書いた著書であった。コラム形式で記されていた何年か前の一冊では、趣味はない、飲み会は嫌いと、ありとあらゆる心の吐瀉を書いていた。人生で初めて共感できるコラムがそこには散らばっていた。そして最後はどこか明るい光が感じられる終わり方で、そこも憎いなと笑った。
心を占めた思いはひとつ。
「こいつは私だ。」
それから彼の出す著書を楽しみにして、新作が出る度に読んでいた。出会うべくして『ナナメの夕暮れ』を手に取ったと言えるだろう。
だが、この著書から見た彼はモラトリアムから脱して、プロレス観戦、ラップバトルなどで熱くなり、海外旅行で感動して、他人や世界を肯定する為のリハビリを行い、人生の中で大切な人と会っていきたいと記していた。
普遍的な幸せを求める、普通のおじさんのコラムの様だった。
だがこの本を、約20年間のモラトリアムを経て、いちいち考察や理由、意見を交えながらでも人生を少しずつ楽しんでいく男の自伝だと思うと私は励まされる気がした。
大人になって内面でずっと鬱蒼としていた彼が外の世界を少しずつ許容していく。彼は世界も他人も自分も許し始めていた。手放しに自分や世界を褒めている訳では無い。諦めも不可能もどうしようもなさも全部分かっていた。大人になって彼はとても冷静に過去の自分も世界も見ていた。
私が拗らせている間にも彼は歳をとっていく。大人になり、一歩離れた場所から世間を見るようになった。
彼は人生で初めて後輩に「考えすぎだよ」と最近思ったと記していた。そして、そんな生き方を回りくどく勿体ないとも記していた。大人の忠告であった。
きっと私は勿体ないのだ。もっと見渡せば世界も他人も自分も違う見方が出来るのに、部屋で縮こまってばかりだ。夜は眠れなくて血走った目で本のページをめくり続けている。
人の何倍もネガティブで内向的でプライドが高く、他人から侮られない事に全力を傾けていた彼が、この間インタビューで幸せそうに笑っていた。
「変わってしまった」と思うかもしれないが、私はこう思った。
「変われたんだな」と。
彼は諦めて初めて見えたものがあったと記した。
私はまだまだ他人からの批判や突然襲い掛かる不安を恐れている。嫌な思い出や辛い過去は、心をかき乱して許すことはできない。要領のいい人間に腹は立つし、何故自分がこんな思いをしなければならないのかと、夜中に何時間も考える。それが積み重なって、今の自分がいる。どうしようもない、自分が。
だが、過去に自分と重ねた彼は確実に進み始めていた。彼が進んだ事に希望を見出した自分がいる。
彼と同じ40歳になれたその日に自分がどうなっているかは想像もつかない。笑っているのか泣いているのか、誰かといるのか一人なのか、生きているか死んでいるか分からない。彼は10代、20代、ずっと拗らせていた。だが私は幸い、まだ20代になったばかりだ。
だからもう少し拗らせていてもいいだろうか。私のモラトリアムはまだ、終わらせるにはあまりに歩幅が合わない。
いつの間にか、時計が4時を指している。眠気は来ずに、何十回と読み返した著書の終わりがまたやってくる。まだまだ抜けきれないモラトリアム期間はきっとこれからも私を苦しめるだろう。それならいっそ私は精一杯苦しみながら充電しておこうと思う。
未来の私が「考えすぎだよ」と自分の肩を叩けるように。
(1811字)(21歳、女性)
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