タカハシ「誰かと食べるご飯」(瀬尾まいこ『そして、バトンは渡された』 )
餃子が食べたい。
最近は簡単に、羽がパリパリでおいしい餃子が作れる冷凍食品もある。でも、キャベツやニラ、ニンニクなど好きな具をたくさん入れて、もう皮から身が出そうなくらいパンパンな、そんな手作りの餃子を食べたい。そう思ってすぐに行動に移った。
自分1人で食べる量はたかが知れているし、たくさんの具材を買うことも考えて、友達を誘う。1人で作ると準備も片付けも大変だけれど、2人だったらなんてことない。あっという間に日取りが決まって、「明日、予定ある?匂いなんて気にしないで、ニンニク入れよう」なんて話しながら、買い物をして、瓶ビールを飲みながら餃子作りが始まった。
高校生の時の家庭科の時間に教わった餃子の綺麗な包み方を友達に伝授しながら、せっせと餃子を作る。そりゃもうパンパンに具を詰めて。 焼き上がったそれは、いびつな形をしているものも多かったけれど、本当にほんとうに美味しかった。
「やっぱり手作りは違うよね」とぐいぐいビールを飲みながら、パクパク餃子を食べていく。あはは、わははと笑いながら食べているうちに、あっという間に餃子40個は姿を消した。
友達の家から自分の家に帰るタクシーの中、そういえば何で餃子が食べたかったのだろうと、アルコールが回ってほわほわした頭で考える。しばらく考えて、「ああ、森宮さんだ」と思い出した。
森宮さんは、瀬尾まいこさんの『そして、バトンは渡された』の登場人物であり、主人公、森宮優子の血の繋がらない父親だ。
この本の中で、森宮さんはたくさんの料理を作っている。オムレツを挟んだサンドイッチ、かつ丼、夜食のうどん。全部、優子ちゃんのことを思って、森宮さんが作った料理だ。
その中でも、私の印象に強く残っているのが餃子だった。
友達とのちょっとしたトラブルが原因で、ひとりぼっちになってしまった優子ちゃんの様子を見かねて、「スタミナがつくように」と作り始めたのが餃子だった。元気が出るようにと夕飯に出てきた餃子は、一晩のことではなく、優子ちゃんのトラブルがひと段落するまで、具を変えながら毎晩続く。それをふと思い出して、手作り餃子を食べたくなったのだ。
本の中にレシピが書いてあって、森宮さんが作った餃子と同じ味のものが食べられるわけでもないし、ましてや本を読んだのは半年以上も前だったのだけれど、元気が出る食べ物といえば手作り餃子だと、私は知らない間に森宮さんに刷り込まれていたようだ。
1人暮らしを始めて、今年で7年目になるけれど、誰かに作ってもらった料理というのは本当に美味しいと思うようになった。
もちろん自炊もしているし、自分の作る料理はそこそこ美味しくて特に不満もない。それでも、母から聞いたレシピ通りに自分でご飯を作ったのになんだかしっくりこないことも多くて、実家に帰ってご飯を食べるとホッとする。同じような経験がある人も多いのではないだろうか。
この本では、本当にたくさんの料理が出てくる。そして、血の繋がらない優子ちゃんの親もたくさん出てくる。
しかし、優子ちゃんのために料理をする描写があるのは森宮さんだけだ。だからといって、それまでの親が優子ちゃんのことを思っていなかったわけではない。親選手権で、森宮さんが1位だというわけでもない。それでも、優子ちゃんが「旅立つ場所も、この先戻れる場所も森宮さんのところしかない」のだ。
誰かのことを思って、料理をすること。誰かの喜ぶ顔を思い浮かべて、ケーキを買うこと。当たり前のように、森宮さんと優子ちゃんは毎日一緒に食卓を囲んでいる。
食べることは忙しい毎日の中でおざなりにされがちなことだけれど、そこに誰かがいるだけで、ひとりで食べるのとは全然違う意味を持つ。そのどこにでもありそうな積み重ねが、様々な食べ物を通して、この本の中には描かれている。そして、森宮さんから優子ちゃんへの思いが料理を通して表現されていて、温かい気持ちになれるのだ。
私の作るご飯と母の作るご飯の違いは、そんな誰かへの思いが関係しているのではないかと思う。
果たして、これで読書感想文になっているのかは疑問である。
しかし、私はこの本を読んで、誰と何を食べるかを前よりも意識するようになった。なんだか食べることが前より好きになって、食いしん坊になった気さえする。
また、生活の一部である食べる場面がたくさん出てくる本だからこそ、この本はどんな人が読んでも楽しめるのではないかと思う。
さて、あなたは誰と何を食べますか。
(1824字)(女性)
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