第8回コンクール 優秀賞作品


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Rey 「芸術は人を救う」(伊東歌詞太郎『家庭教室』)


 私は無差別に本を読む。あらゆる偉人の格言も名作とよばれる作品すべてが、私にとって必要なものではない。では、必要なものにはどうやったら出会えるのか。それは求め続けていればベストなタイミングで巡り会う、そう信じていた。

 この本の作者である伊東歌詞太郎氏はアーティストでもある。喉の不調のため手術を要することとなり、その休養期間を利用して小説を執筆したのだ。
 私は以前から彼の音楽が好きでよく聴いていた。彼の創る音楽から伝わる印象は、純粋さと視点の優しさと慈悲深さだ。その真っ直ぐな思いは、知らず知らずに背負っている重荷や傷と向き合っている人の心に射し込む一条の光となる。そんな彼が表現する物語の世界に触れてみたくてこの本を手に取った。

 物語の主人公である家庭教師の灰原先生は、「生きるとは」という広い視野で子どもたちを見て、「どこまでも君の味方だよ」という姿勢で向き合い、心を通わせる。信頼という強固な基盤のうえにある自分に安心感を得た子どもたちは自然と、主体的に現実を動かすパワーを発揮するのだ。

 しかし物語すべてがハッピーエンドではない。そこに作者の伝えたい意図が潜んでいる。
 第6章ではいじめの問題が語られている。灰原先生もひどいいじめにあっていたと告白しているが、これは作者本人の告白でもある。読後はやりきれない感情、どこにぶつけたら良いかわからない憤りを覚えて思わず本を閉じた。
 私は何度も想像してみた。大勢の前で人として扱われない苦痛。死にたいほどの辛さ。実際に命を絶つことを選択してしまう極限の心理。経験のない私に理解することは難しい。読後の憤りはどこまでいっても憶測の域を出ない自分に対してだったのだと気がついた。
 「心を壊されて生きるのと死ぬのとではどっちが辛いのだろう」 悲愴感に満ちた二者択一に私は酷くうろたえた。「いじめは解決できっこない」 当事者にしか断定することのできない悲痛な訴えに胸が詰まった。彼のその苛酷な実体験は、芸術活動において言葉の説得力を増強させ、より表現に立体感をもたらしている。そしてその意志ある歌声は、希望の光となって私の心を何度でも暗闇から救い出してくれたのだ。

 私は自分のこころの不可解さに戸惑いがあった。自己否定、自己嫌悪、劣等感、孤独感。自分のこころが生み出した愚かな幻想によって世界を狭めていたように思う。自分のなかにある人格との、不器用なコミニュケーションの果てに構築された、根深い固定観念。自分を縛ってきた価値観や思い込みが、この本を読んでいくうちに少しずつ溶けて心が軽やかになっていくのを感じた。

 エピローグで明かされた羽田くんの父親の仕事での目的、「社会の幸福を増やし不幸を減らすこと」は、作者の精神の根幹にある強い信念であると感じる。私が傾倒している宮沢賢治氏の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という言葉とリンクし、見えない絆に思わず手を合わせた。

 文章から読み取れる作者の思考の流れや、その思考に至る情緒的なプロセス、その源となる精神の核の部分に私の魂が共振した。そして大切なことを思い出させてくれた。「誰かの役に立ちたい」という想い。それまでの私は大きくて立派な人間にならなければ人の役に立つことはできないと自分を押さえつけていた。小さくて弱くて能力のない自分では誰かの役に立つことなんてできないと自分を蔑んでいた。
 実の所、この感想文を書く際も、その哀れな思考癖が私を執拗に阻んだ。自分へのジャッジが足枷となるいつもの悪癖だ。だが自分を変える好機だと考え、内側に深く向き合い続けた。
 すると意識の変容が起きた。ちっぽけな自分のままでいいではないか。今の自分ありのままを正直に表現するだけでいいのだと。称賛される文章を書くことが私の目的ではない。灰原先生のように率直に本来の自分を発揮するだけだ。気づけたら途端に人生が愛おしいものに見えてきたから不思議だ。私の人生で必要だったものは、どうやら伊東歌詞太郎氏の芸術表現の中にあったようだ。
 人生での大切な気づきや、創造性を掻き立てる何かを彼の作品は私にくれた。自分を表現することが苦手だった私が、この感想文を書いていることが最たる証である。巡り合わせに感謝だ。

 作者と私の共通の願いを叶えるためには、まず私自身を愛し満たしてあげること。
 私の中で満たされて溢れたものが、誰かの幸せに繋がる未来を私は強く望んでいる。
 これから育てていきたいのは、「自分を信じたがっている私」ではなく「信じたい自分の姿に向かって邁進する私」なのだ。

 最後に、葛藤がありながらも「大人の読書感想文コンクール」にこうして参加できたことも、私の中で精神的な移行を促してくれる意味ある経験となった。360度ありがとうを伝えたい。
 そして心から願っている。
あなたの世界が幸せで満たされますようにと。

(1992字)(45歳、女性)


 ●使用図書


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