第8回コンクール 優秀賞作品


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佐々木「おとなになっていくこと」(サン=テグジュペリ『星の王子さま』)


 私が『星の王子さま』を初めて読んだのは、13歳の時だ。どうやら有名な本らしいということを知り、興味を持った。
 本は元々読む方であったが、そのきっかけは母が誕生日に1冊の本をくれたことだった。それ以降、学校の図書室に通い目についたものを読む習慣がついたのだが、自ら意思をもって書店で購入したのはこの本が初めてだった。

 初めて読んだ時の心持は未だに忘れない。「この本には何かとても大切なことが綴られている。それはきっとこの先私がずっと持ち続けていくべきものだ」と思った。しかし、その「何か」を言葉にするには当時の私はまだ幼かった。私にはこの1冊の本がキラキラと繊細な輝きを秘めているように感じられ、その輝きがこぼれ落ちてしまわないよう、カバーをかけてそっと本棚の端に並べたのだった。

 私はその後も定期的に本を読んでいた。同じ本を何回も読むこともあった。というのも、中学校の国語の先生の言葉が印象深かったからだ。気に入った本があれば年代を追ってまた読みなさい。10代、20代、30代……。必ず感じ方が違うはずだから、という趣旨の話であった。
 『星の王子さま』も例外ではなく、10代のうちにすでに3回読んでいた。そして20代になって4回目を読み終えた今、当時はぼんやりとしていた思いが言葉としてふと心に浮かんできた。それは、「子どもだった自分のことを私は忘れたくない」というものだ。これは本編の前、著者の友人に宛てられた献辞の一節 ―おとなはみんな、はじめは子供だったのです(しかし、そのことを覚えているおとなはほとんどいません)。― にあるように、この本のテーマであるようにも感じる。

 この本と出会ってから14年が経ち、初めて読んだころからみると自分はずいぶん「おとな」になってしまったように思う。
 ここでいう「子ども」「おとな」は単純な年齢による区別ではない。私が感じるうえでの「おとなになる」ということは、数字で物事を捉えようとすること、花がまったく役に立たない棘を作る理由を理解しようとしないこと、自分の感性が自分でも気づかない間に閉ざされていってしまうこと、だ。
 子どものころに比べ、できなくなったことが沢山ある。自分の可能性が狭められていくように感じることもある。そう感じても、色々なことを享受したり、消費したり、時には発信したりしていく日々において、おとなになっていく現象を止めることはできない。しかしおとなになった今だからこそ、14年前に感じた「何か」を言葉にできるようになったこともまた事実だ。

 子どものままではできないこと、おとなになるとできなくなることがあるように、子どもだから、おとなだから叶うこともきっとたくさんある。今の私は、今までの私のすべての時間、経験、感情の先に立っている。振り返れば、そこにいるのはすべて「子どもの私」であり、「おとなの私」は現時点での集大成の姿だ。
 子どもだった自分を忘れたくない。でも変わっていく、おとなになっていく自分もすきでありたい。できなくなったことばかりに捉われて、可能性を閉ざしたくない。そう思う。

 おとなになったからこそできるようになったと思うことが、もう1つある。
 王子さまの言葉には印象的なものがいくつもあるが、その中の1つに次のようなものがある。 ―家でも星でも砂漠でも、その美しさを成り立たせているものは、目に見えないのさ― 私にとってのそれは何か。また私と接する1人1人を美しくさせているものは何か。
 この本を読んでから私は、自分の、そして他人の内面に触れたい、人を理解したいと思うようになった。その際、対象の心を推し量り、土足で踏み込まないように努めることは、子どもの私には難しかっただろう。「集大成の私」だからこそ配慮することができるのだと思う。

 「星の王子さま」を読んだことのある人と、私はまだ出会ったことがない。子ども向けの本というイメージが世間では強いのかもしれない。
 しかし私自身、子どもの頃にこの本と出会っていてよかったと思う。子どもであったことを忘れながらおとなになってしまっていたら、この本からは何も得られなかったかもしれないからだ。
 書店で何気なく手に取った時のことは忘れない。あの瞬間こそが私の人生の転機であった。王子さまは私の今後にテーマを与えてくれたのだ。これからも子どもであった自分を大切に抱きしめながら、人と自分の内面に向き合いながら、おとなへの過程を歩んでいきたい。

(1816字)(25歳、女性)


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