まりも「明るいほうへ」(川上 弘美『センセイの鞄』)
わたくし恋をしてしまいました。
と言っても現実世界ではなく本の中で、です。
私は離婚後、何年か前からうつ病を患っています。
悲しいことに、それ以来、大好きな本が読めなくなりました。
新聞もテレビもあまり観られなくなりました。
この病気は脳が人よりも沢山疲労する病気。
色んなメディアからの情報が一気に入ってくると、すぐにオーバーヒートしてしまうんです。
でも先日、娘と図書館に行った時、ふっとある本が読みたくなりました。
それが『センセイの鞄』です。
以前この本を原作にしたTVドラマが放送されました。
私はそれを観るのを何日も心待ちにしていました。とても大好きな俳優さんが出演されていたからです。
なにしろセンセイの空気感が、その俳優さんのトボけた雰囲気にぴったり。
内容が進むにつれて、とても自然に、主人公二人の淡い恋模様が切なく胸に響いてきます。
私は先にドラマを観て、本を後に読んだので、センセイとツキコさんの恋物語を映像として頭の中で展開していきました。
やっぱり原作もすばらしかった。
失礼ながらそれまで、どなたが著者なのかも知らずにいました。
この方の感性も笑いのツボもとても私に心地よく、読みながら思わずニヤニヤしてしまいました。
センセイと蛸しゃぶの色がうっすら変わる様を一緒に見たい。
センセイと美味しいお酒を一緒に飲み交わしたい。
センセイと月を眺めながら一緒に夜道を歩きたい。
センセイの体温を感じて、センセイのほんのりお酒の漂う香りを感じながら一緒に眠りたい。
「センセイ」 「ツキコさん」
「センセイ」 「ツキコさん」
二人のこの呼びかけが時に微笑ましく、時に切なく響きます。
本を読んだ後も私、ほぅ~とため息をついて、センセイへの恋心を抱いてしばらく思いを馳せていました。
ここ最近、私の心は干からびたスポンジみたいになっていたので、この本を読んでそこにジワーっと水が染み込んでいくのが分かりました。
恋は渇愛。
飲んでも飲んでもすぐ喉が渇いて、もっともっとと水を欲するものです。
その水が私には無くなっていました。もうカピカピでした。
きっと無意識の内に、私の心がこの本を欲したのだと思います。
そして、恋するって、やっぱりいいもんだなぁと改めて私に教えてくれました。
この本を読んで以来、私の日々の生活スタイルが変わりました。
それは、娘と図書館に通い、本を楽しむことです。
病気になって以来、読書から遠のいていたことが嘘みたいに、自然と本の内容が頭にすっと入るようになりました。
小さい頃から読書が大好きだった私は、また自分の世界を、そして本来の自分自身を取り戻す糸口を見つけられた気がしました。
だって本を読んでいる間は、自分が病気のことや、生きているのがとても苦しいこと、娘の前でも泣き出してしまいたくなるほど辛いこと、それらが全てきれいさっぱりなくなってしまうんです。
それどころか本の中では、私は無敵のヒーローにだってなれるし、世界を股にかけての冒険旅行だって自由自在です。
心が明るい方に向き始めると、自然と健康な生活になり、病気は快方に向かっていきました。
私が病気を乗り越えるキッカケを与えてくれた一冊の本、『センセイの鞄』は今でも、うちの本棚の一番の特等席に鎮座しています。
(1,323字)(46歳、女性、東京都)
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