第3回コンクール 最優秀賞作品


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七草すずめ「夏の日差しの向うに」(江國香織『すいかの匂い』)


 夏といって思い出すものは、人それぞれだと思う。海水浴、セミの声、かき氷、宿題……。わたしの場合、まず頭に浮かぶのは淡いグリーンの表紙。江國香織氏の著書、『すいかの匂い』だ。

 この本には、様々な夏の記憶たちが閉じ込められている。それが年端もいかない少女たちの記憶だから、自分が体験したはるか昔の夏の感触まで、つられてよみがえってくる。生々しく手触りがある描写に既視感を覚え、自分の中に幼い頃の欠片が残っていることに驚かされる。

 表題作である「すいかの匂い」、海で出会った女の子に偽りの自分を語る「薔薇のアーチ」、自宅に下宿していた女と復讐を企て穴を掘る「蕗子さん」……。どの話を読んでも、いつかの夏の高揚感や憂鬱感で胸がいっぱいになる。語られる十一の夏は、セミの抜け殻やアイスの棒、透明なBB弾を箱に収めて宝物にしたのと同じように、本に収まりきらきら輝いている。
 わたしがいつも取り出して眺めてしまう宝物は、「弟」という話だ。たとえそれが真冬であっても、この物語を心に浮かべるとき、わたしの耳にはセミの声が聞こえてくる。

 この話を象徴する言葉は、夏と死。
 「お葬式をかなしいものだと思ったことなど一ぺんもない」という「私」は、子供みたいに自分の体を持て余しながら、さっき見送った弟の煙を思い返す。そして、二十年近く前の祖母の葬式を、そのかたわらで小学校一年生だった弟とやった「お葬式ごっこ」を、弟をいじめている子を順に荼毘に付した夏を思う。若くして死んだ弟の煙を前に「こんな晴れた日に、あんなふうにすいすいと気持ちよさそうに、ずるだ。」と言ってのける「私」は、きっと生にも死にもとても近いところにいる。

 そもそも夏という季節自体が、死に限りなく近い場所なのだ。その感覚を思い出させてくれたのがこの物語だった。噓みたいに青い空の下、強い日差しにじりじり焼かれていると、わたしは長野の諏訪を思い出す。あの夏の日、わたしの妹が「弟」と同い年だったから、きっとわたしも「私」と同じくらいの年齢だったはずだ。

 祖父の実家がある諏訪へ行ったのは、後にも先にもその夏のお盆だけだった。妹と二人、祖父の運転する煙草くさい車の中で、好きなアニメの主題歌をうたっていた。自動では開かない窓が楽しくて、ハンドルを回し意味もなく開け閉めした。時折祖父が高らかに軍歌をうたい、マニュアル車のエンジンの音が伴奏みたいに響いた。諏訪はそこまで暑くなかったけれど、強い日差しで影はくっきりと地面にはりついていた。

 カメラが好きな祖父はたくさん写真を撮ったのに、初めからフィルムが入っておらず、結局一枚の写真も残らなかった。だけどわたしは、大きな石の傍らで格好つける祖父の姿を鮮明に覚えている。あのときわたしは確かに、今ここで祖父が死んだらこのまま諏訪のお墓に入ってしまうのだろうか、と思いながらシャッターを切った。

 お盆、墓参り、田舎の実家、それから容赦ない陽の光。いつか来る祖父母との別れを常にどこかで恐れ続けていた私に、夏は死をひけらかしてきた。「すいかの匂い」のすべての物語は、その感覚をありありと呼び起こさせる。十一人の「私」がそれぞれの形で、生と死の近さを感じているからだと思う。

 「弟」の最後の一文を心に浮かべるたび、からりと晴れた空とセミの声をすぐそばに感じる。いつ来るかわからない死を、自然なものとして受け入れられる気持ちになる。誰だって死にたくはないけれど、必ず最期の時を迎えなくてはならないのだとしたら、そのときはわたしも真夏の空に昇っていきたい。晴れた空ならきっと気持ちがいいし、きっと諏訪の湖も見つけられる。それから、この少女たちにも会えそうな気がする。

 祖父はその夏から十数年後の冬に命を終えた。だけどわたしは、あの夏の日差しの向こうに、祖父の姿を見る。

(1565字)(27歳、女性)
twitterアカウント : @suzume_nanakusa


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