津山周「人生のおわりを支えるもの」(カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』)
クローンとして生まれたキャシーとトミー、友人のルース。彼らの使命は、若くて健康なまま臓器提供することであり、それは彼らの死を意味する。臓器を提供するという運命を彼らはどう受け入れているのか。逃げもせず、集団で造反もせず、静かに臓器を提供する日を待つ。つまり死を待つだけなのか。
臓器提供を受ける患者はこうした行為をどう受け止めればいいのか。健康だった者が、ある日、事故に遭遇して死を迎えたとする。その突然な死は臓器提供者の死とどうちがうのだろうか。他者の命と引き換えに、延命を願うことをどう考えればいいのか。この本を読む前は、臓器移植にそれほど否定的ではなかった。脳死状態の方の臓器をある意味で活かすと言えるかもしれないとさえ思った。だが脳死とはいえ、心臓は鼓動をうち、体温は温かい。そういう人の、生きた臓器を取り出すのだ。そして死に至らしめるのだ。
こんな法律はもちろんないが、臓器を摘出する場合、きちんと誰か第三者が立ち会うことを法律でもし義務付けられていたとする。適法で適正な手続きで自らが立会人に選ばれて、臓器摘出の場を凝視せねばならなくなったとする。こうなったとき、嫌悪感や罪悪感に苛まれることはないのか。もし臓器提供が致命傷となって、提供者が死亡したとき、臓器提供を受けた者はそのことをどう受認していけばよいのか。この本は私にいろんな想像を起こさせる。
物語の中に、愛しあうトミーとキャシーは臓器提供を延期すべく、かつて過ごした施設の長に訴える場面がある。こっそりとその居所をつきとめ、二人で「三年くらい遅らせてほしい」と切望するのだがそれは受け入れられない。トミーは最後の臓器提供を終えて死に、キャシー介護人としての葛藤の末、自ら臓器提供者になることを決意する。キャシーらクローン人間と私にどんな違いがあるのだろう。逃れることのできない必ず死ぬという定めは同じだ。だが彼らはその魂まで実験の被験者のように管理されている。
キャシーが「わたしを離さないで」という曲に合わせ、枕を赤ん坊に見立てて抱きながら踊るシーンがある。ルースは自分の遺伝的な「親」の可能性がある人物を、探しに行く。三人は離ればなれになって数年後、難破船を見に行くことを口実に再び会う。Never Let Me Go(「わたしを離さないで」)というフレーズどおり、失われた愛や記憶、未来を求めながら、つながりを懸命につかもうとするが、それらは実体がない。人生のおわりに人の魂を支えるのは、懐かしい記憶だけなのかもしれない。
(1235字)(60歳、男性)
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