第10回コンクール 優良賞作品


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アオイボウシ「春にして君を離れ」(アガサ・クリスティー『春にして君を離れ』)


 この美しいタイトルに惹かれて、この本を手に取ったのは、もう10年以上前のことになる。
 
理解できなかったこの本のテーマについては、何度か繰り返し読むことで徐々に理解できるようになった。
 また、最初は主人公に共感することが多かったが、徐々に批判的な考えを持つようになった。

 例えば、夫が弁護士を辞めて農場を経営したいと言ったとき、最初は私も主人公と同様に、弁護士の仕事を続けるべきだと思った。弁護士のほうが収入も多いし、誰もが就ける職業ではないし、社会における成功者じゃないか、と。
 でも、弁護士の仕事が本当に嫌で、農業が彼の本当にやりたいことだったとしたら・・・。望んでいない仕事に取り組み続けることは大変な苦痛である。しかも、無理やり働かせられているのだ。自分のことを何も思いやってくれない人のために。
 一緒に農場を経営するか、離婚するか、どちらかの決断を選ぶべきだったのだろう。しかし、主人公が選んだのはそのどちらでもない、説得して我慢させること、無理やり言うことを聞かせることだった。子どもの将来のために、弁護士を続けるべきだと。
 もちろんその主張には一理ある。都会にはあらゆるサービスが溢れている。しかし、自分が嫌でやりたくないのに、子どもを引き合いに出すのは卑怯ではないだろうか。田舎で農業なんてやりたくないというのが本音ではないだろうか。

 こういった説得の仕方は、誰もがやってしまいがちである。
 スーパーで子豚が一頭まるまる売られていることについて、かわいそうだと非難が集まっているというニュースを見た。本当にかわいそうだという理由だろうか。怖くて気持ち悪いから嫌なだけではないだろうか。
 自分が非難されそうだから、そう言わないのだ。本音をごまかすことはとてもずるくて、必要以上に相手を傷つけて不快な想いをさせると思う。

 この本から学んだことは、多々ある。
 無理やり言うことを聞かせることの冷たさ、大事なものを理不尽に奪われることの虚しさ、幸福というものが千差万別だということ、相手を理解しようとする思いやりを持つことの大事さである。

 昆虫好きな同僚がいた。今なら、へぇ、そうなんだという感想しか持たないが、以前はなんでそんなものが好きなのか、何の役に立つのかと思っていた。
 本人に直接そう伝えたことがないのは、本当に幸いである。本人の幸福を尊重すべきなのだ。それを理解できない私の視野が狭いのだ。もし、私がこの同僚から昆虫好きを取り上げることがあったら、それはとてもひどい仕打ちで、おそらく恨まれるだろう。

 「心なき風、可憐なる五月の蕾を揺さぶりて 夏の日々はあまりにも短く―」
 作中でよく引用されている句だが、最初は本当に意味が分からなかった。しかし、今はなんとなく理解できる。主人公に対する気持ちを比喩したものである。
 君の冷たい仕打ちは、私の心を傷つけて 幸せだった日々はあまりにも短く―

 私が繰り返し読み返すのは、この本だけである。私の価値観を変えた一冊だ。
 私は主人公と同様に無難な選択をすることが多い。冒険や挑戦ができない性格である。誰もがこのような一面を持っているだろう。
 作中には、困難な状況にあっても、人生を悲観せず困難に立ち向かう逞しい人物も登場する。その人物の素晴らしさは確かに理解できるが、おそらく私にはそんな生き方はできない。私にできることは、困難な状況に陥らないよう努力すること、しかしその過程で他人に自分の価値観を押し付けないことである。
 読み返すたびに、こんな人間になってはいけないと気持ちを引き締めるのだ。

(1,454字)(35歳、女性、福井県)


 ●使用図書


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