第7回コンクール 優良賞作品


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八木茜「救い主」(遠藤周作『死海のほとり』 )


 私の中で宗教というもののイメージは、得体のしれない気味の悪いものだった。
 そもそも、お葬式では僧侶の元、共に南無阿弥陀仏を唱えたり、クリスマスは1年で特に楽しみにしているイベントであったりと、仏教やキリスト教が(もしかしたら他の宗教も)入り交じった生活を20年間続けてきたのだから、自分が一体何教徒であるのかないのかも分からずにいた。

 本書では、主人公と学生時代の友人の「戸田」がキリストの足跡を辿るためイスラエルを巡礼する。 そして、現代を生きる主人公たちの巡礼と、キリストが生きていた時代の人々の視点からの、キリストについての物語が交互に登場し、最後には、キリストが処刑されたと信じられているゴルゴタの丘で主人公を含む全員の視点が集められる。

 キリストが生きていた時代の地方の部落では、自分たちの惨めさを救う者が南から現れるという言い伝えを皆信じていた。そしてキリストが現れた時、村人は救い主が来たと喜び、キリストの周りに集まっていく。
 人々は、キリストに病気の子を助けて欲しいなどと頼むのだが、キリストは病に苦しむ人々の手を握り、共に泣くのみだった。
 「お前は何もできなかった。」と人々はキリストに言う。このように、キリストは行く先々で人々から奇蹟を求められ、役立たずと罵られ、石を投げられてしまうのだった。
 
それでもキリストは、「そばにいる。あなたは1人ではない。」「私は、その苦しみを一緒に背負いたい。今夜も、明日の夜も、その次の夜も…。あなたが辛い時、私はあなたの辛さを背負いたい。」と言い続けた。

 キリスト教について全く無知だった私でさえ、キリストの言った言葉が深く胸の奥に染み渡っていった気がした。
 私も辛く苦しい時、やはり自分は1人きりなんだと思ってしまう時がある。1人で抱えて悩み、誰にも打ち明けることができない人は、現代にもたくさん居る。そんな時、自分は1人では無いんだと気づかせてくれる人が居たら、どんなに救われるだろう。
 きっとキリストは、キリスト教を信仰していなくても、苦しむ人々に寄り添い続けるのだろう。

 一方、主人公たちは大学時代に「ねずみ」と呼ばれる修道士がいた事を思い出す。
 ねずみは軽い病気にかかった時、死ぬのを怖がって泣き叫んだり、学校を辞めて国に帰り、収容所に入った時には、手伝いの修道士なのに周りの囚人に教師だったと嘘をついたりしていた。
 ねずみは弱く、卑怯な人間だった。
 ねずみは最期、背広を着たドイツ人にガス室へ連れていかれる。そんなねずみを離れたところから見ていた別の囚人が、一瞬、彼の右側にもう1人の誰かが、彼と同じようによろめきながら歩いていたのを見たと言った。
 それがキリストである。キリストはねずみにも手を差し伸べたのだ。
 「いつも、お前のそばに、私がいる。」

 誰しも、ねずみのように弱く、卑怯な部分があると思う。私も、本当は認めたくないけれど、弱く卑怯な部分がある。そんな部分も丸ごと私で、そんな私のそばにもキリストはきっと居る。

 キリストは最期、ゴルゴタの丘で十字架に磔にされてしまう。
 手足に釘を刺されている時の悲鳴、呻き声は、目を背けてしまいたくなるほどだが、キリストに磔を命じた知事のピラトや、キリストの生死を確かめるために脇腹に槍を突き刺した百卒長、キリストに石を投げた村人たちも、誰一人として悪く無いと思う。皆一様に守らなければいけないものがあり、そうしなければ生きていけなかったのだ。

 キリスト教を信仰している人達から見ると、遠藤周作のキリスト教観は異端であるらしい。だが、宗教に酷い偏見を持っていた私には、遠藤周作の描くキリスト教観には惹かれるものがあった。
 無知であるということは、怖いことだと思う。たくさんの要らぬ偏見を持ってしまう。本作を読んだことで、キリスト教の何たるかを分かった訳では無いが、少なくとも気味の悪いものという偏見は無くなった。娯楽の中の読書というだけでなく、学ぶ読書が出来たと思う。本作は私の血肉となるだろう。
 そして、辛く、苦しい時、その苦しみを根本的に解決することを人は望んでしまうけれど、それでも、誰かがそばで寄り添ってくれること、自分は1人ではないんだと気づくこと。それはとても救われることだと思う。

 人生100年時代、上手くいけば私は後80年生きることになるが、辛くなった時には、またこの本を開きたい。
 キリストの言葉は必ず、私を救ってくれるだろう。

(1806字)(女性)


 ●使用図書


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